小澤弘昌の私設民俗資料館
(静岡県清水町の灌漑用水を中心とした民俗と歴史)



箱根用水とヒソンバ(日損場)

 

箱根川(箱根用水の用水路、伏見

伏見窪の水田
芦湖(あしのこ)水利組合 箱根用水は寛文6(1666)年に工事を開始し、寛文10(1667)年に完成した。翌11(16668)年に現在の裾野市・長泉町・御殿場市・清水町の伏見・新宿の30ヶ村で使用がはじまった。現在、この灌漑用水の管理は芦湖水利組合により行われている。同組合の管理者は裾野市長、副管理者は長泉町長で、御殿場市長と清水町長も役員になることになっている。芦湖水利組合を形成する地域は上郷・中郷・下郷の三つの井組(井組三郷)に分かれて箱根用水の管理をしている。清水町の伏見と新宿は、そのうちの下郷に属している。下郷は伏見・新宿以外に裾野市の伊豆島田・水窪、長泉町の納米里・上土狩・中土狩・下土狩の計9地区で形成されている。
水配人 井組三郷では、それぞれ正・副1人づつ計6人の水配人を選出している。水配人の仕事は、箱根用水に関係する各行事に参加して水利権を確認することと大堰を管理して、各地区の水田に用水を分配することである。下郷の場合は下土狩から1名と上土狩・納米里から交替で1名出ることになっており、下土狩から出た水配人が正となる。かつては伏見・新宿の代表者が清酒を持って下郷の水配人に水を分けてくれるように頼みにいった。また両地区は箱根用水の流末に位置しているため、かつては下郷の人々が集まった席でも発言することが許されなかったという。
箱根用水御裁許虫干会 下郷では下郷文書と呼ばれる箱根用水完成以来の水利権に関する文書を所有している。この文書は長泉町の下土狩連合区で保管しているのだが、年1回、八月初旬に各地区が交代で虫干会を行っている。これを箱根用水御裁許虫干会という。この虫干会の当番は下土狩連合区、竹原、伏見または新宿、中土狩の順で行う(上土狩は芦ノ湖水神社の祭典を行うため免除)。虫干会には裾野市長・御殿場市長・長泉町長・大堰土地改良区理事長・下郷選出の水配人2名・長泉町商工課が招かれる。
芦ノ湖水神社の祭典 毎年8月1日に下郷では大庭源之丞と友野与衛門を祀った芦ノ湖水神社の祭典を行う。祭典を行うのは上土狩である。この祭典には伏見・新宿も含む下郷の全区長が集まる。また、この祭典のために芦湖水利組合が米1俵(60キログラム)を毎年献納する。
伏見の水利 伏見は使用した使用する灌漑用水を中心に、伏見・新田・窪の3つに分けることができる。伏見は旧東海道に面し小浜用水を使用していた。ここの水田は土地が低く、水が引きやすかった。日損(旱魃)の時も安定して水が供給されたので、小浜用水は伏見ではジョウスイ(定水)と呼ばれた。一方、新田(特に枇杷田)は箱根用水を使用していたが、土地が高いため水が引きにくく、戦前まで「(田植えのころ)水が不足して、田んぼの水がなかった」と言われたほどであった。ゆえに、この状態がもっともひどかった枇杷田(ビヤダ)は日損場と言われた。はかつて本宿用水や長泉町本宿に水源を持つ子僧池用水を使用していたが、土地が低く水が引きやすい。
日損場 伏見新田の中の枇杷田にあった水田は箱根用水掛かりの地域の末端に位置している。かつて、田植えの時期になるとここの水田を耕作していた農民たちが「イイ(結)作ろう」といって集まり、近くの箱根用水の水路までセキ止めに行ったが、水を充分に引くことはできなかった。末端の水田になると、そこを耕す農民は水路を鍬で掻いて、水田まで水を引き、さらには水田の中でも鍬を入れて水の通りをよくしなければならなかった。
一夜堀 そこで、伏見の日損場の水田を耕作する農民たちは小浜用水下(八幡・長沢・柿田)の了承を得て、毎年田植えのころに小浜用水を新宿と伏見の境界に位置する一夜堀という場所で堰き上げて水田に引水した。その後、箱根用水井戸掛といって新宿の地方神社の裏に用水井戸を掘りポンプで水を汲み上げて日損場の水田に引水するようになった。そこで日損場の水田を耕作する農民たちは、毎晩1人づつ交代で、この場所のバン(見張り)をしていた。しかし、それでも充分に水が引けない水田もあった。そういった水田は、トウモロコシなどを栽培するな、田成畑(タナリバタ)にせざるを得なかった。故に戦後は、この土地の水田耕作を辞めて、宅地にしてしまったり、畑にしてしまった農家は多い。
現在は、箱根用水使用地域の上流の水田でも、休耕田が増えたり、宅地化が進んだこともあり、柿田まで箱根用水の水が充分流れてくるようになった。また、小浜用水が灌漑用水として使用できなくなったので、八幡・長沢・柿田なども箱根用水を灌漑用水として使用するようになった。
新宿の水利 新宿(向宿)は、旧東海道開設後の慶長19(1614)年に伏見から分村して成立した。ゆえに新宿は箱根用水の水とともに小浜用水の水を使用していたが、明治期に小浜用水管理組合が成立するまで、伏見からの「貰い水」ということで、小浜用水の維持管理に関する負担もせずにすんだ。新宿はかつては伊豆国と駿河国の国境であり、それを示す伝統行事も未だに多く、また、灌漑用水の面でも亀甲石の付近で箱根用水と小浜用水が合流するなど重要な地区である。
柿田の水利 柿田は古代から水の不足しがちな土地で、「かわき(渇き)田」と呼ばれたのが転じて柿田と呼ばれるようになった。柿田は小浜用水の流末に位置しており、旱魃になると必ず被害を受けた。江戸時代に、柿田の人々は柿田川から水を柿田の水田に引こうとして失敗したことがあった。八幡から柿田にかけて砂山線という道路があるが、このとき用水路を掘った土砂を積んだつんだことに由来する地名である。また、お盆の時期もずらして行われたほどである。柿田川の水を灌漑用水として使うようになってからは、柿田の水不足も解放された。
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