小澤弘昌の私設民俗資料館![]() 小浜用水・箱根用水の協同慣行 |
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概要
現在、清水町域の狩野川以北の地域のうち新宿・伏見・八幡・長沢・柿田は水田の灌漑用水として箱根用水・柿田川用水を用いているが、かつてはこの2つの灌漑用水のほかに小浜用水・子僧池用水も用いており、特に三島市の小浜池を水源とする小浜用水が主な灌漑用水であった。 小浜用水は千貫樋用水とも、五ヶ村用水ともいわれる。この灌漑用水の水源は三島市の小浜池である。この小浜池は、古来から小浜用水とともに三島市の中郷地区の十三ヶ村(青木・新谷・平田・上松本・下松本・長伏・御園・玉川・堀ノ内・鶴喰・八反田・梅名・安久)の灌漑用水である中郷用水の水源でもあった。また、この灌漑用水は総論でも述べたように、16世紀後半までの一時期、丸池用水の水源の丸池(古池)が地震で枯渇し、新池(現在の丸池)が築造されるまで、この用水掛かりの地域の水田も灌漑していた。 現在、小浜用水は、水源である小浜池が度々渇水したことと、この用水の水掛かりの6地区(新宿・伏見・八幡・長沢・柿田)の水田が、戦後減少してきたことから、昭和54(1979)年から灌漑用水として使用されなくなっており、箱根用水と柿田川用水のみが使用されている。 小浜用水
灌漑施設 この灌漑用水の特徴は、かつての行政区域である伊豆国から駿河国に水が引かれたことである。小浜池から清水町域までの通水の方法は、同池中央の大口と呼ばれる水口に、石堰を築いて取水し、蓮沼川から境川に掛かる千貫樋と呼ばれる用水樋から清水町域の水田まで引水していた。千貫樋というのは、この地域の灌漑用水である小浜用水の水源である小浜池の水を駿河国に通水するために、伊豆国と駿河国の国境の境川の上に架けられた用水樋のことである。この用水樋は長さ四二・五メート幅一・九メートル、深さ〇・四メートル、高さ四・二五メートルであった。木製の樋は大正12(1923)年の関東大震災で倒壊した。現在の樋は、その翌年の同13(1924)年に再建されたコンクリート製のものである。現在は町指定文化財となっている。築造された年代については小浜用水掛かりの地域では天文二三(一五五四)年の今川氏と後北条氏の縁組みの際に、この用水樋が作られたという伝承がある。これは近世に長沢村の名主贄川良以が調査した際にも同様の伝承がすでにあったことが記されている。しかし、すでに何回か述べた通り、この用水樋は、それ以前に完成しており、かつて小和田哲男氏が指摘されたように日詰大樋と呼ばれていたようだ。しかし、この用水樋は、近世以降の用水掛かり地域の井組を構成した5ヶ村の石高に換算して1、300石(約1000貫相当)相当の水田の灌漑を可能としていた。ゆえに、この地域の人々は、『駿河記』などに記されているように、賞賛の意を込めて、この用水樋のことを千貫樋というようになったのであろう。この用水樋(掛渡井)は近世以降、米作りが為政者により奨励された時期に作られた同じような地域の間での、いわばモデル地域であったらしい。喜多村俊夫氏が『日本灌漑水利慣行の史的研究』の中で陶山純翁の『水利問答』を引用
用水慣行 小浜用水は小浜池から蓮沼川(宮さんの川)を通り(ここまでは三島市域)、境川の上に掛けられた千貫樋を通って清水町域に入る。清水町域は先ず、千貫樋から新宿に入る。新宿から玉川と伏見に入る。伏見からは八幡・長沢・柿田の順に分水される。小浜池の小浜用水側への取り入れ口は石堰と呼ばれていた。この石堰は、田植えの頃に崩して小浜用水に通水する方式をとっていたが、それ以外の時期でも少しづつ小浜用水に水が流れていくようになっていた。ゆえに、この石堰は中郷十三ヶ村が水不足となった際には取り払うこととなっていた。用水の分水方法は丸池用水と同じく施設的分水である。つまり、かつては用水路の分岐点に置かれている分水石の上に石を積み上げ、その石を取ったり外したりすることでセギの高さを調節していたということである。 水利慣行 小浜用水・箱根用水掛かりの地域の用水路から水田への灌漑方法は堂庭ほか六大字と同じくカケゴシ(掛け越し)と言われる方法を用いている。かつては、水が不足すると、水路を石でせき止めて、他人の水田から自分の水田に水を引く農民もいた。しかし、引水にかんしては水上・水下という順序があっても農民相互の関係はうまくいっていた。現在は水が各水田に水が自由に引けるようになっている。 協同慣行 今川氏の検地の行われた天文21(1551)年3月に今川氏が甘利氏に与えた判物と永禄5(1562)年の今川氏真朱印状と、同12(1567)年の今川氏真判物から、泉郷とその周辺地域の土豪たちが次の@〜Bの諸権利を認められたことが分かる
これについて小和田哲男氏は「戦国期の村落構造と領主権力」という論文の中で、
近世に入り、江戸幕府が成立すると、小浜用水掛かりの井組五ヶ村は、千貫樋の維持管理のために幕府から25石3斗の年貢の免除を受けた。この25石3斗の米を収穫する水田は伏見の中にあり、樋免または樋領と呼ばれた。この樋免について『駿河志料』は「井掛り六ヶ村にて預り、毎年修理を加ふ」と記している。つまり樋免の管理は小浜用水を使用する井掛り六ヶ村で行っていたということである 。井掛り六ヶ村というのは、この当時、井組を構成していた伏見・西玉川・八幡・長沢・柿田の5ヶ村に新宿を加えた数であり小浜用水を灌漑用水として使用しているムラムラのことである。また、この用水の水路の補修等の町(丁)場などの負担は元禄5(1692)年の「小浜用水築堤覚書」に見られるように井組を構成していた五ヶ村の水掛かり高に応じて負担されていた(1石につき1尺の割合)。明治以降、それまでの井組に新宿を加え小浜用水組合が形成されて以降は、各地区の水田の面積に応じて均等に賦課されるようになった(昭和35(1960)年当時、1反(300平方メートル)につき10円の割合)。 小浜用水管理委員会 元禄5(1692)年の『小浜用水築提覚書』に「惣じて千貫樋水かかりの儀は五ヶ村にて相究申者也」とある。これは、丸池用水と同じように小浜用水に関することは、この井組を形成する村々の村役人たちの話し合いにより、決定していたということを示すものである。これは明治以降、この用水の維持管理を行っていた小浜用水組合、小浜用水管理委員会(昭和32(1957)年に名称変更)に引き継がれている。 『小浜用水管理委員会規約』の第5条には
管理区域 管理委員会では用水掛かりの地区の各水田に確実に水を分配するために、水面使用についての管理区域を設定している。その内容は、新しく水路の上に橋を架ける際には間口1メートルにつき1万円を徴収する。また間口が1メートル以上になる場合は念書を取ることになっている。加えて用水路上に構造物が作られる場合、1メートルにつき15、000円徴収することになっている。 堀浚い かつて小浜用水掛かりの各地区の農民たちは管理委員会を中心に、小浜用水の水利権の確認のため蓮沼川(宮さんの川)の堀浚いをおこなっていた。この堀浚いは毎年5月30日前後におこなわれ玉川・新宿・伏見・八幡・長沢・柿田の六地区から三〇名前後が参加しおこなわれた。最後の堀浚いは昭和53(1978)年五月28日に22名参加(玉川は2名、ほかの4地区は4名ずつ)しておこなわれた。それ以降は小浜池の渇水のため、堀浚いはおこなわれず、水利権確認のための形式的な見回りが年1回おこなわれる程度である。 小浜池の渇水 小浜池は近世後期の文化10(1813)年以来、度々渇水した。慶応3(1867)年には、これが原因で、小浜用水掛かりの井組と中郷用水掛かりの井組との間で水争いが起こり、その後10年間、石堰の付近の見回りをする水配人10人(小浜用水の井組4人、中郷十三ヶ村6人)が置かれた。その後も、小浜池の渇水は度々起こり、昭和54(1979)年以降、小浜用水は灌漑用水として使用不可能となった。しかし、この頃になると、新宿・伏見・玉川・八幡・長沢・柿田の水田の耕作に必要な水は箱根用水・柿田川用水・丸池用水の水で十分に賄えるようになっており、支障はなかったという。 三島との関係 かつて、清水町域の小浜用水掛かりの地域の人々と蓮沼川沿いの三島市内の4町(六反田・茶町・木町・茅町のち加屋町)の人々との関係はあまり良くなかった。両者の間に争いが起こり、訴訟沙汰になったこと(明治16年砂揚場大訴訟)もあったほどである。昭和20年代まで同様の状況であったが、昭和40年代になると、蓮沼川の堀浚いの際に加屋町・広小路の人々が管理委員会に清酒を贈ったり、清水町内の小浜用水係の井組の人々と共同で堀浚いの作業を行うなど、両者の関係は改善されていった。 柿田川用水
まず八幡・長沢が大正14(1925)年に30馬力のモーターを設置した(長沢揚水機)のを皮切りに柿田と長沢の一部が昭和2(1927)年に20馬力のモーターを設置した(柿田揚水機)。 これにより、それまで田植えの時期の水不足に悩まされた八幡・長沢・柿田の水田にようやく充分な量の灌漑用水が供給されることとなった。 長沢・柿田用水組合 柿田川用水の使用開始後、長沢揚水機に頼灌漑される水田を耕作する農民たちは長沢用水組合、柿田揚水機により灌漑される水田を耕作する農民たちは柿田用水組合を結成した。 以後、これらの組合が、それぞれの揚水機の維持・管理や用水路の維持管理を行っていた。平成3(1991)年に、農家が減少して水田も含めた農地が減少し、残った農家の水に対しての負担が大きくなったことなどから八幡にある沼津市泉水源地内に新たにポンプを設置した。これにともない長沢・柿田の両用水組合を合わせて長沢・柿田用水組合が成立した。この用水組合には規約はなく、役員は会長・会計・幹事の3人で、任期はそれぞれ1年である。 柿田川用水の協同慣行 長沢・柿田用水組合の柿田川用水の維持・管理のための協同慣行は、毎年5月中旬に八幡・柿田地区の堀浚い、下旬に柿田地区の堀浚いを行う。堀浚いが終わるとポンプの運転を開始し、9月下旬に運転を終了する。その間、6月に作付け面積調査を行う。 現在、柿田川用水は沼津市水源地内にあるポンプから送水される。このポンプの操作と管理は水源地の職員が行っている。柿田川の水利権は長沢・柿田用水組合にもあるので、水の使用料は沼津市に支払ってはいないが、ポンプ操作のための費用としての電気代(1反5000円づつ)を組合員から徴収し、支払っている。電気代の余った分はポンプの補修代金として使われる。用水組合の役員には、ポンプが水を確実に汲み上げているか確認する仕事がある。 さらに、この用水組合の役員には八幡の天神屋の付近にある分水セギで箱根用水の余り水を塞き止めて柿田川の水とともに、八幡から長沢、または柿田の順で分配する仕事がある。八幡・長沢・柿田の水田は、小浜池の枯渇以前は小浜用水の水と箱根用水の余り水を用い、その分の不足分を柿田川の水で補っていた。しかし、小浜池の水の枯渇以降は箱根用水の余り水と柿田川の水を半々に使用している。かつては八幡の分水セギの調子があまり良くないために大雨の時などに水が逆流し長沢の小字久保田の民家が床下まで浸水することがあった。それを防ぐため、平成3(1991)年に大雨の際に自動的で倒れるセギを作った。用水組合の役員には、それを元通りに直す仕事もある。 生活用水も農業用水の水路を利用している。用水組合では水田に被害を与えるような汚れのひどい排水を流すことを許可しない(用水組合は農地を守るためにある)。また、農地を宅地に転用するときは用水組合の承認が必要である。 箱根用水
水配人 井組三郷では、それぞれ正・副1人づつ計6人の水配人を選出している。水配人の仕事は、箱根用水に関係する各行事に参加して水利権を確認することと大堰を管理して、各地区の水田に用水を分配することである。下郷の場合は下土狩から1名と上土狩・納米里から交替で1名出ることになっており、下土狩から出た水配人が正となる。かつては伏見・新宿の代表者が清酒を持って下郷の水配人に水を分けてくれるように頼みにいった。また両地区は箱根用水の流末に位置しているため、かつては下郷の人々が集まった席でも発言することが許されなかったという。 箱根用水御裁許虫干会 下郷では下郷文書と呼ばれる箱根用水完成以来の水利権に関する文書を所有している。この文書は長泉町の下土狩連合区で保管しているのだが、年1回、八月初旬に各地区が交代で虫干会を行っている。これを箱根用水御裁許虫干会という。この虫干会の当番は下土狩連合区、竹原、伏見または新宿、中土狩の順で行う(上土狩は芦ノ湖水神社の祭典を行うため免除)。虫干会には裾野市長・御殿場市長・長泉町長・大堰土地改良区理事長・下郷選出の水配人2名・長泉町商工課が招かれる。 芦ノ湖水神社の祭典 毎年8月1日に下郷では大庭源之丞と友野与衛門を祀った芦ノ湖水神社の祭典を行う。祭典を行うのは上土狩である。この祭典には伏見・新宿も含む下郷の全区長が集まる。また、この祭典のために芦湖水利組合が米1俵(60キログラム)を毎年献納する。 伏見の水利 伏見は使用した使用する灌漑用水を中心に、伏見・新田・窪の3つに分けることができる。伏見は旧東海道に面し小浜用水を使用していた。ここの水田は土地が低く、水が引きやすかった。日損(旱魃)の時も安定して水が供給されたので、小浜用水は伏見ではジョウスイ(定水)と呼ばれた。一方、新田(特に枇杷田)は箱根用水を使用していたが、土地が高いため水が引きにくく、戦前まで「(田植えのころ)水が不足して、田んぼの水がなかった」と言われたほどであった。ゆえに、この状態がもっともひどかった枇杷田(ビヤダ)は日損場と言われた。窪はかつて本宿用水や長泉町本宿に水源を持つ子僧池用水を使用していたが、土地が低く水が引きやすい。 日損場 伏見新田の中の枇杷田にあった水田は箱根用水掛かりの地域の末端に位置している。かつて、田植えの時期になるとここの水田を耕作していた農民たちが「イイ(結)作ろう」といって集まり、近くの箱根用水の水路までセキ止めに行ったが、水を充分に引くことはできなかった。末端の水田になると、そこを耕す農民は水路を鍬で掻いて、水田まで水を引き、さらには水田の中でも鍬を入れて水の通りをよくしなければならなかった。 一夜堀 そこで、伏見の日損場の水田を耕作する農民たちは小浜用水下(八幡・長沢・柿田)の了承を得て、毎年田植えのころに小浜用水を新宿と伏見の境界に位置する一夜堀という場所で堰き上げて水田に引水した。その後、箱根用水井戸掛といって新宿の地方神社の裏に用水井戸を掘りポンプで水を汲み上げて日損場の水田に引水するようになった。そこで日損場の水田を耕作する農民たちは、毎晩1人づつ交代で、この場所のバン(見張り)をしていた。しかし、それでも充分に水が引けない水田もあった。そういった水田は、トウモロコシなどを栽培するな、田成畑(タナリバタ)にせざるを得なかった。故に戦後は、この土地の水田耕作を辞めて、宅地にしてしまったり、畑にしてしまった農家は多い。 現在は、箱根用水使用地域の上流の水田でも、休耕田が増えたり、宅地化が進んだこともあり、柿田まで箱根用水の水が充分流れてくるようになった。また、小浜用水が灌漑用水として使用できなくなったので、八幡・長沢・柿田なども箱根用水を灌漑用水として使用するようになった。 新宿の水利 新宿(向宿)は、旧東海道開設後の慶長19(1614)年に伏見から分村して成立した。ゆえに新宿は箱根用水の水とともに小浜用水の水を使用していたが、明治期に小浜用水管理組合が成立するまで、伏見からの「貰い水」ということで、小浜用水の維持管理に関する負担もせずにすんだ。新宿はかつては伊豆国と駿河国の国境であり、それを示す伝統行事も未だに多く、また、灌漑用水の面でも亀甲石の付近で箱根用水と小浜用水が合流するなど重要な地区である。 柿田の水利 柿田は古代から水の不足しがちな土地で、「かわき(渇き)田」と呼ばれたのが転じて柿田と呼ばれるようになった。柿田は小浜用水の流末に位置しており、旱魃になると必ず被害を受けた。江戸時代に、柿田の人々は柿田川から水を柿田の水田に引こうとして失敗したことがあった。八幡から柿田にかけて砂山線という道路があるが、このとき用水路を掘った土砂を積んだつんだことに由来する地名である。また、お盆の時期もずらして行われたほどである。柿田川の水を灌漑用水として使うようになってからは、柿田の水不足も解放された。 |
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