小澤弘昌の私設民俗資料館
(静岡県清水町の灌漑用水を中心とした民俗と歴史)


丸池用水の協同慣行
1灌漑施設

セギ作りの作業
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中堀
構造 灌漑施設としての丸池用水の構造の特徴は一度、堀(水路)に水を流せば、その大セギ(分水点)から、その使用する水田に水係り高(受益面積)に応じて、等しく行き渡る構造になっていることである。加えて、この堀を流れる水は、この井郷を形成する全てのムラムラの水田を灌漑した後、全て、中堀に戻るようになっている。その灌漑施設の分水点である大セギは全部で3ヶ所ある。用水を分水する順序は次の通りである。まず、寺田セギで柳川が分かれる。次に五反田セギで西堀が分かれ二ツ石セギで、中堀から戸田堀が分かれる。中堀は丸池用水の堀の中心で、丸池から泉郷六ヶ村の中央部を通り、的場まで進んで境川に落ちる。ここまでにかかる時間は1日半から2日である。この中堀を境として、泉郷六ヶ村は次のように、東方(ひがしかた)と西方(にしかた)の2つに分かれる。
東方 久米田・戸田・畑中・的場
西方 堂庭・湯川
 西方は中堀と西堀により、堂庭、湯川の順で灌漑し、東方は戸田堀により久米田、戸田、畑中の順で灌漑している。
 灌漑用水の施設の目的は、水掛かりの水田を等しく灌漑することである。ゆえに、この用水の大セギの高さは寺田セギを除いて、毎年4月のオオミゾザライ(大みぞざらい)の際に、全て水が流末の水田まで、水係り高に応じて、等しく行き渡るように調節される。基本的に丸池用水のセギは全て、洗堰であるので、灌漑用水が不足するまで、調節されない。
 大セギには「根石」と呼ばれる石が堀の分岐点の目印(分水石)として置かれている。この「根石」は絶対に動かさないことになっている。この大セギを作る作業は、「根石」の前に藁を敷き、その上に土をかぶせ、大きな石を置く、さらに、その上に水量を調節するための石をいくつか置くことによって完成する。水田耕作の期間中は、そこから分水する水の水量の調節は大セギの一番上の石を、取ったり、置いたりすることで行う。
 二ツ石セギには名前通り、大きな石が二つ根石として並べてある(現在はコンクリートで固められている)。この大セギだけは、他の大セギと違い「根石」の上に直接石を置き、セギの高さを調節する。この場所での水のセキ止め方により、水の流れる向きが、中堀の東か西になるので、それぞれの方角にある水田の灌漑水量に大きな影響があり、時には水争いに発展することもあった。
 地形的に見て、西方は土地が高い上に、水持ちが悪い。それに対して東方は土地が低く、水が流れやすい。そのため、ここのセギの高さが高いと、西方の水田の水量が多くなり、低いと東方の水田の水量が多くなる。そこで、普通は水が東方にも西方にも等しく分水できるように調節してある。1960年代まで、シロカキの頃に水が充分にないと、東方の農民と西方の農民が鋤や鍬を持ち、このセギの付近に集まり、にらみ合いを続けた。水利組合の役員まで一緒になってにらみ合いを続けたので、間に立って解決する人がおらず、後に水配人が置かれる原因になった。西方の農民たちは、水田が少なくなり、水配人がつくまで、シロカキの頃には、自分の水田の番(見張り)を一晩中しなければならなかった。
 二ツ石セギだけでなく、大セギの上の石を外すなどして、一方に有利なように水を引くと、水争いになる。しかし、水争いになっても、村々の間が検悪になることはなかった。泉郷六ヶ村の人々がその水利慣行に関して、いわゆる「互譲」の精神を大切にしてきたからである。
 寺田セギは一刻セギとも言い、玉川の寺田に灌漑するためのセギである。寺田は土地が高く灌漑しにくいので、大きな石を二重に積み重ねて、セキ止めた。寺田セギは幅が広く大きなセギであるために、水が境川に落ちてしまう。そのため、毎日、正午から午後2時までの一刻(2時間)だけ、水を堰き止めて、その後はセギを払うことになっていた。寺田セギが別名一刻(いっとき)セギと呼ばれるのは、このためである。田植えの期間中、寺田の水田を耕作する人々は、毎日二重の上石を載せたり、外したりしていたが、水の勢いが強く裸にならなければできなかった。現在は、このセギの付近に設置された払い水門が、このセギの役割を果たしている。
 これらの大セギを作る作業は、かつては組合員全員で行っていたが、当番区の制度が出来てからは、その年の当番区の人々が行っている。小セギを作る作業は、オオミゾザライの後、その付近の水田を耕作する人々が、結を作り、行う。 
水利慣行 かつてのこの地域の堀には用排水路の区別がなかった。水田の灌漑方法はカケゴシ(掛越)といって言われる方法である。引水の順序は、一般の灌漑用水と同様に、水上の水田が先に取り入れる権利があった。しかし、水を水田に引く場合、水が水田の全てに掛かるまで(1反歩あたり2時間半から3時間)、その水田のみ、水を引くことはできなかった。堀に少しは水が流れるようなセキ止め方をしなければならなかった。水を流す順序があるからといって、自分の水田にだけ、水を引くともめた(水争いになった)。堀に用水路と排水路の区別がつきカケゴシでなくなったのは、1960年代、ポンプが設置された時からである。
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