小澤弘昌の私設民俗資料館
(静岡県清水町の灌漑用水を中心とした民俗と歴史)

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| 水利組織と古文書 |
| @泉郷から泉郷六ヶ村へ |
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文書箱 |

入会地(柿田川川岸) |
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| 地域的一揆体制の成立 天文20(1551)年、当時、駿河国を支配していた 今川氏が、現在の清水町域を含む地域の検地を行った。この時、今川氏の検地に協力したのが堂庭の杉山氏などのこの地域の土豪(名主)たちであった。その結果、彼らは天文22(1553)年の今川義元判物(「杉本文書」)にあるように年貢の地下請を認められた。その後、約20年の間に、この杉山氏・畑中の秋山氏・久米田の杉本氏をはじめとする土豪たちの泉郷を中心とする地域的一揆体制は灌漑用水(丸池用水・小浜用水)の水利権・肥料(泉川=柿田川の川草)の確保を実現した。その背後には、永禄3(1560)年の桶狭間の戦による今川義元死後の今川氏真の政治改革、今川氏亡前後の後北条氏の、この地域への進出があった。この政治的な混乱期に、泉郷の土豪たちは生活基盤の確保とそれによる在地秩序を実現したということである。 |
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泉郷の人々と文書 泉郷の人々の生活基盤は小浜用水・泉川(柿田川)の川草(川藻)であった。泉郷(近世以降は泉郷六ヶ村、現在は堂庭ほか六大字)の人々は、その村落自治の実現以来、その諸権利(丸池用水・泉川の川草の採取権)を保証するための古文書を所持してきた。いわゆる「泉郷文書」、「秋山文書」、「杉本文書」「旧堂庭村民十郎兵衛文書」などが、それである。現在も、改良区の理事長と会計が「文書箱」という木箱の中に丸池関係の書類を保管している。それらの古文書のうち、次の
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| の文書は「一郷所賜なり」(『駿河志料』)といわれ、この時代以降、泉郷(おもに泉郷六ヶ村)の人々に大切に扱われてきた。@とAは丸池用水に関するものBとCは泉川の川草の採取権に関するもの、Dは年貢の地下請に関するものである。特に天正元(1573)年の朱印状については文政7(1824)年の泉郷六ヶ村と西玉川村との間の水争いの際に出された「駿東郡泉郷六か村湧水池埋木理不尽訴状」に、「右御書付は則六ヶ村ニて所持罷在」、「
六ヶ村惣百姓共相続仕候」とあることから、泉郷六ヶ村の人々が、この「六ヶ条の法度」の書付を大切に相続し、その内
容を丸池用水の維持管理に関する仕来りとして守ってきたことが分かる。 加えて、この「六ヶ条の法度」を書いた2本の立て札を丸池の縁に立てて、
泉郷六ヶ村が丸池の水利権を持つことを、西玉川村に対して示すしきたり が、天正元年以来、あったことも、この訴状に記されている。この「六ヶ条の法度」の内容は、 |
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(1)、丸池の本池(古池)・新池の魚を取らないこと。 |
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(2)、池に魚を取るための網を仕掛けないこと。 |
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(3)、牛馬を池の周囲に入れないこと。 |
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(4)、池の周囲の竹・木・草を刈り取らないこと。 |
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(5)、堤(灌漑施設)を毎日見回り、少しでも壊れた箇所があれば、直ちに修理すること。 |
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(6)、大風雨の時は水門を上げて水を出し、灌漑施設には少しも被害を出さないようにすること。 |
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| というように堤(溜池を中心とする灌漑施設)の維持・管理に関するものである。この法度は、元亀3(1572)年の堤(新池)の築造後に、当時、この地域を支配していた後北条氏が、泉郷の土豪たちに、出したものである。これを示すのが、元亀3(1572)年の後北条氏の朱印状(「杉本文書」)である。この朱印状の内容は、泉郷の堤(溜池)を築造する際に、伏見・竹原・土狩の名主たちに泉郷の芝を使用するように命じたものである。また、それより3年前の永禄12(1569)年の朱印状(「秋山文書」)にあるように、丸池用水の水利権を土豪たちは得ている。 |
| 新池の築造 丸池用水は天長9(832)年に築造された。しかし、元亀3年に、それまでの水源(古池)より高い場所に、新たに溜池(新池)を築造し、その用水を使用する水田全てに、等しく分水できるようにした。泉郷でこういった工事の行われた背景については丸池の弁天島にある碑に |
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此丸池は何時頃出来たか明らかでない。古池が地震で湧かなくなって、更にこの池を造ったと言い伝えている。 |
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| とあるように、時期は判然としないが古池が渇水したことが大きいであろう。さらに16世紀後半には、後に泉郷六ヶ村と呼ばれるようになった地域(堂庭・湯川・久米田・戸田・畑中・的場)の農民たちも小浜用水も灌漑用水として使用していた。それを示すのが天文21(1552)年に今川氏から甘利氏あてに出された判物と久米田に樋掛田という地名である。しかし、この用水を条里制の時代から使用していた伏見・八幡・長沢・柿田・西玉川(玉川)といわれる地域も『駿河記』に |
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豆州小浜池水を駿東六村へ引、所謂玉川・新宿・伏見・八幡・長澤・柿田等の田に灌漑する水なり。此村里古代水渇の処なりしが、天文の頃より今川氏北条氏の恵を以てかく豆州より水を取しとなり。 |
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| とあるように、灌漑用水は充分でなかったと考えられる。ゆえに後北条氏は日詰大樋(後の千貫樋)を改修するとともに新池を築造し、泉郷・伏見・長沢の農業生産力の向上を図ったのである。 |
| また永禄7(1564)年の今川氏真の判物(「旧堂庭村民十郎兵衛文書」)と永禄10(1567)年の朱印状により代官(地頭)である今川家の家臣を通さずに年貢を請納する権利を得た(地下請)。さらに永禄13(1570)年の今川氏真の朱印状により、泉郷が泉川(柿田川)の川草の採取権を保障された。 |
| 泉川(柿田川の川草) 柿田川の水面は、先述したように、この地域の水田から10メートル以上、下にあり、灌漑用水として使用することは、長い間不可能であった。このことが、この地域の水田の灌漑用水の不足をもたらし、泉郷の農民たちに、水源を別に求めさせることになった。しかし、この川の川草(川藻(水藻=三島梅花藻)も全て含む)は二毛作の麦と桑の肥料として、効果があった。先述した『駿東郡清水村々史』にも「夏・秋四季ニ当リ柿田川ヨリ採集シ田畑ノ肥料トナス是又多大ノ産額ナリ」と記されている。かつて泉郷といわれた地域の農民たちは、この川草を育てるために、葦などを取り除いてきた。川草を採る場合、川岸(柿田橋・清水町図書館付近)から船を出して、川の中に竿を入れ、その竿に川草を巻き付けた。採った川草は川岸に干して、乾燥させた。乾燥した後は、これを担いで、田畑に運んだ。戦後はこれらの川草に関する管理が行き届いていないため、葦が繁殖し、植生が乱れてきている。 |
| 穀倉地帯への発展 一般に年貢の地下請と、灌漑用水と肥料の確保が郷村が村落自治を開始するための条件と言われている。これらの条件を得て、ようやく泉郷では土豪たちによる在地秩序がもたらされたのである。なお、近世の検地による村切り以降、丸池用水・小浜用水を生活基盤として2つの井郷が形成された。ゆえに近世以降、泉郷のうち、丸池用水を使用する村々で形成される井郷(井組)を泉郷六ヶ村と呼ぶようになり、単に泉郷・泉之郷と呼ぶ場合も、この泉郷六ヶ村を示すことになった。こういった動きが可能になった背景には、生活基盤の確保による農民たちの生活の向上もあった。それを示すのが慶長11(1606)年の三島代官井出正次の諸役免除手形である。この手形の内容は,泉郷六ヶ村に散田(新田)500石が開墾されたので、その新田500石の年貢を免除するというものである。 |
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| A丸池かんがい用水土地改良区 |
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丸池かんがい用水土地改良区の総会 |
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| 沿革 現在の丸池用水の維持・管理は丸池かんがい用水土地改良区(以下改良区という)により行われている。明治6(1873)年に、泉郷六ヶ村の農民たちにより丸池用水組合が成立した。それ以降、丸池水利組合・丸池管理組合を経て、昭和32(1957)年に成立したのが、この改良区である。昭和60(1980)年に玉川用水組合が合併し、この大字の結びつきも「堂庭ほか六大字」といわれるようになった。 |
| 組合員の資格 この改良区の組合員は当主がなるのが原則である。役員には大体40歳以上の組合員が選ばれる。 |
| 役員 改良区の中心となり、丸池用水の管理を行っているのは、理事長以下の役員である。改良区の役員は毎年3月に行われる総会(通常総会)で、3年ごとに、1名を除いて、改良区の組合員の中から選出される。役員は理事12名、幹事3名の合計15名である。理事は次に示すように、2名選出する大字と1名選出する大字がある。 |
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2名 玉川・久米田・堂庭・湯川・的場 |
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1名 畑中・戸田 |
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| 理事の中から、理事長1名、副理事長2名が選ばれる。かつては理事は大字で1名づつ、大字の中で選出されていた |
| 総会 総会(通常総会)は先述した通り、毎事業年度1回3月に開かれる。総会は午前9時に始まる。総会の招集者は、出席人員が定数に達したときは、これを報告して開会を宣言する。次に理事長の挨拶と来賓の祝辞が述べられる。その後、出席した組合員の中から議長の選任を行う。議長は、議事の進行をはかるほか、議場の整理に必要な措置をとることができる。また議長は総会の承認を得て議事録署名人2人と書記を指名する。議事録署名人と書記が指名された後、議事の進行が始まる。議事の進行は、まず議長が議案の議題を宣告した後、提案者の説明、これに対する質疑討論と採決の順に進められる。議案の採決の行われた後、組合員は議長に議題を提出することができる。議題は他の組合員の5分の1以上の賛成を得れば提出できる。議長は、この議題が総会で議決できる場合は、これを議案として付議すべきかどうか、総会の出席者全員にはからなければならない。それ以外の議題については、動議が議案の修正の動議である場合には、必ず修正動議について採決する。ただし、修正動議が2以上あるときは、その趣旨が原案と、もっとも異なるものから順序に採決する。議題の採決の方法は、挙手・起立又は投票のいずれかである。その後議長は書面による議決を加えて、総会にはかって決定する。議案のうち委員会に付議したものは、委員会の審議の結果を聞いて採決しなければならない。議事が終わった後、議長と書記の解任が行われて、午前11時前後に総会は閉会する。 |
| 用排水調整委員会 用排水調整委員会は丸池かんがい用水土地改良区の委員会の中の1つで、セギの調整を行う。人数は委員長を含めて6、7名であり、全て改良区の理事である。この委員会は駿豆水道が敷設された時(1970年)に置かれた。この委員会の委員は別名水配人と呼ばれ、委員長は水配長と呼ばれる。仕事の内容は@各地区の水田に水が来なくなるなどの問題が起きた場合、この用水掛かりの全ての水田を見回り、水の量を掌握した後、大セギを見回り、石を動かしてセギの高さを全ての水田に水が等しく行き渡るように調整する。A大雨の後などに自動セギを元通りにする仕事、である。 |
それとは別に、毎日、亀甲石付近のゴミを払い、午前と午後の2回、丸池の水位を見て、堀の水量を見ながら、ポンプを調整する(北から第4・5ポンプ、第1ポンプ、第3ポンプの順)仕事(管理当番 )がある。この仕事は、理事長を除く、各理事が毎日交代で行う。丸池用水には昭和40年代以降、第一から第五まで5ヶ所の揚水機場があり、それぞれポンプが設置されている。このポンプは県で作られ、町が委託されたもので、改良区で管理しているポンプの操作は7月以降、9月30日まで、理事が交代で毎日行う。理事は、このため、ポンプを製作した会社の社員に操作方法の指導を受けなければならない。ポンプが動き出すのは、ミズアゲ(水揚げ)の後、5月の下旬以降である。それから、6月30日まで、ポンプの操作ができる理事が管理人として、ポンプの管理を行う。 |
| 芝切場の成立 天正元(1573)年に新池が築造された際に、丸池の水囲い用の土手の補修用の資材となる竹・木の伐採地・土取場として、古池の西南(新池である丸池から見て西北)の土地が免税地である除地とされた。この土地は泉郷六ヶ村で管理されていた。この除地の面積は3筆合わせて4反4畝5分(4、852.08平方m)であった。江戸時代には池番が置かれていた。 |
| 堂庭ほか五字特別会計 芝切場は現在、宅地として25名に貸しており、その地代を丸池の補修の費用としている。これを「堂庭ほか五字特別会計」といい、3年ごとに地代の更新を行っている。この土地の管理は丸池借地担当の理事の他に3名の理事がついて、行っている。 |
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